一竿子忠綱

天明四年(1784)、若年寄・田沼意知(意次の長男)が殿中にて斬りつけられた。斬りつけたのは、佐野善左衛門であり、「一竿子忠綱」の脇差で肩口を斬りつけたのである。意知の腿に刺さったが、傷は深く、数日後に死亡した。善左衛門は切腹を命じられた。

この騒動の直後高騰していた米の価格がみるみる下がりはじめた。庶民はこれを善左衛門の刃傷事件のおかげであるとし、善左衛門を「世直し大明神」と崇め、墓所にはひっきりなしに人が訪れるほどであったという。

また、意知を斬った一竿子忠綱は、俄然人気が出始め、その値は米とは逆に、ぐんぐん高騰したという。

なお作者・一竿子忠綱は、江戸時代元禄期のころに活躍した摂津国(大阪府北部と兵庫県の一部)の刀匠。意知を斬ったのは、二代近江守忠綱作の大脇差だったと言われる。